SASUKEが許せない。
SASUKEには詳しくないし、入れ込んでいるわけではないので、いつものようにダラダラ書くものもない。
SASUKEは面白い。
わずか十数秒のナレーションの後、選手が走り出す。そして、さまざまな難関に挑む。
最初の方は家族と「これは俺でもできる」なんて言ってみたり。
あと少し、というところで落下してしまい、みんなでテンションの高い実況と奇しくもシンクロしてしまったり。
予備知識も文脈もなく、なんとなくでみんなで楽しめる。良い番組だと思う。
構成も良い。
時間制限があり、盛りだくさんの1stステージでたくさんの人がふるいにかけられる。
ここに出演する人はバラエティ豊かで、日が出ているためか、番組は賑やかな空気に包まれる。
VTRで上げに上げられた人が序盤で落ちると、SASUKE全体に漂う無常感がいよいよたちこめてくる。
そして徐々に難易度を上げ、時間制限が無くなり、3rdステージが終わる頃には0から数名のファイナル進出者が残されることになる。
問題なのはここからだ。
俺が許せないのはSASUKEのファイナルステージなのだ。
難易度が上がった3rdステージでは時間制限が無く、緊張した面持ちで最難関に挑む選手が見られる。
対して、ファイナルステージでは時間制限が復活する。
一つのミスも許されないような短いリミットの中で、挑戦者は垂直に上っていく。
今回の挑戦者は2人居て、いずれも途中でミスを犯し、それを挽回することができずに敗れた。
それで思う。
いや、無理じゃね?
3rdステージが一番好きだ。
「俺でもできる」なんて言葉が喉にかからないほど難関を彼らは超えていく。
鬼門・クリフハンガーの前に呼吸を整えるさまは荘厳さすら感じさせる。
ふるい落とす時間は終わり、“真の強者”を決める段階に入ったーーそう感じてしまう。
しかし、これが時間制限ありだったら?
おそらくだが、本来ならクリア出来ていた人が出来なくなるだろう。もちろん変わらず出来る人もいる。
しかしなにより、俺は無粋だと思う。
繰り返すが、徐々に難易度を上げ、時間制限が不要になっていく様にどうしようもなくカッコ良さを覚えているのだ。
急いだ結果の「あーーー!」がいつまでも続いては、その雰囲気は味わえない。
「時間制限が無くなった」のに「難易度はトータルで上がっている」。こんなにカッコいいレベルデザインが有るだろうか?
なのに、ファイナルステージではミスが無いことが要求される。
かつては綱を登る一種だった記憶があるが、今ではファイナルステージは三種競技になっていた。
そうされるとこちらも「ほ、本当に?もっとファイナルらしいファイナルがあるんじゃない?」という困惑を覚える。
半年単位で練習してきた選手たちが挑むファイナルステージとして、見応えに劣る。どうしてもそう、感じてしまうのだ。
こちらも素人だ。
実際今回のファイナルでどの程度のミスだったかは計り知れない。
だから「戻せ」だとかそういう要求をするつもりも毛頭ないし、選手たちの頑張りに何か言う権利さえ自分にはない。
しかし。
SASUKEがゲームだったら。
何度も繰り返しコンティニューできるし、一回きりだとしたらそのレベルデザインに客として文句が言えるだろう。
SASUKEが古から伝わる試練だったなら。
どんなに厳しく理不尽でも、そこに挑むことこそが尊いのかもしれない。それはそういうものだから変える必要もない。
SASUKEが対戦競技ならば。
ミスをした方が負け。これほどわかりやすく、観客として盛り上がれることもない。
しかし困ったことに、SASUKEはSASUKEなのである。
俺がSASUKEをおかしいと思っても、そして整理がつかなくても、その感情込みでSASUKEなのだ。換えは効かない。
というか大多数の人にとって、SASUKEはまだ代替不可能な存在だ。
ゲームや競技ならそれなりに文句も言えたろうが、SASUKEは観客がいて、ルールがあって、一人で挑む、鉄骨仕立ての試練なのだ。どれでもない。
だからこそ観ている自分は、居場所のない想いを抱え続ける。
SASUKEは憎いやつだ。
SASUKEは許せない。