勧善懲悪を舐めるな

多様性と勧善懲悪を対比させるのはやめて欲しい

別にどうということはないのだが。

ちょっと浅はかなんじゃないのという話。


気持ちはわかる。
「これはただの勧善懲悪じゃない、敵にも戦う理由があるんだ」
間違いなく大事な気付きであるし、この「好きな理由」は、子供向けとして下に見られる可能性を備えるコンテンツにはつきものだ。
しかし、そこで「ただの勧善懲悪じゃない、多様性の物語」と、多様性と勧善懲悪を対置するのは話が違う。
多様性という状況が見え、過去の形そのままの勧善懲悪は支持を得にくくなった。それだけだ。

多様性を尊重しつつも勧善懲悪は成り立つ。
なお、ここでの話は、基本的に「敵」がいて「味方」がいてーーという物語を前提にしていることは了解していただきたい。

単純な話、「多様性を否定する者」を悪として扱えばそれで勧善懲悪になる。悪を打ち破る手立てが多様性になっていればなお良い。
もちろん、「多様性を否定する者」を悪として扱わなければ、勧善懲悪の物語でありながら多様性を切り離すことはできる。正しさよりも義理人情に主眼を置いた物語(復讐劇のような)はいくらでもあるだろう。

このように、多様性と勧善懲悪は決して相反する概念ではないし、多様性は「悪人がいない」概念でも何でもなく、多様性を善とすることを担保にした状況の一つなのである。

逆に、多様性の否定者を悪人として描けなければ、その前提は瓦解すると考えた方が良い。登場人物がみなそう思っている必要は無いが、それが多様性の物語である条件というものだろう。

ただ多様性を善とすることの影響は大きく、しっかり描けていれば、観る人を排除したり選別したりすることがない。
それどころか、一人一人の心の傷を包んで感傷的な視聴体験にすることも容易だろう。

ただの勧善懲悪

ところで、いや、実はこっちの方が主題なのだが、引き合いに出されるただの勧善懲悪がどれくらいあるのかが気になって仕方がない。

物語を作るとして、そしてそれが善悪や正義にフォーカスする類の物語だとして、「ただの勧善懲悪」を創作するには、ものすごい計算が必要にならないだろうか。

先述したとおり、多様性は現代においてもはや前提になってきている。
だから「こういうやつがムカつく!だから罰する」という他罰性を剥き出しにした物語は、もはや受け入れられないだろう。
そういうのはインターネットやら、実体験に基づいたバラエティ番組やらが担っている。大勢に受け入れられる虚構、「物語」には、おおよそならない。
この多様性の時代において、勧善懲悪の物語には、考え抜かれた善と悪が不可欠なのだ。


逆に現代においては、多様性ゆえに個々人が勝手にぶつかるので、「ただの勧善懲悪でない物語」の方が楽な気がしてくる。
ここが一番肝心で、「人間ドラマ」だとか「ただの勧善懲悪でない」とかは、それは多様性を前提にした故の副産物ではないか?という気がしてならない。

もちろん面白いものを作るのが簡単になるわけではない。

だが作品のファンとして、好きなものを好きな理由が「ただの勧善懲悪じゃないから」ばかりであるならば、自身が浅はかかどうか考えてみる必要があるかもしれない。

ゲシュタルト崩壊が起きそうなくらいに多様性を連呼するのも、ひとえにこの単語自体の意味のブレに起因すると思われる。
確固たる意味はあるのだろうが、いろんな人がそれぞれの多様な多様性を扱うがゆえに訳がわからなくなっている。

自分でも本当にこれで正しいのかは全くわからない。 しかしそういうものだろう。 少なくとも、自分では正しいと思って書いている。

多様性や自由という言葉は、自身の盾になるが、同時に他者の盾でもある。
それを「防御は最大の攻撃」であるかのように武器として扱うことのないよう気をつけなくてはならない。
多様性で攻撃して良いのは、多様性を否定し、かつ、それで攻撃してくる敵のみだからだ。

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