フェミニズムの周りをうろうろする男性
自分が当事者でない問題とどういう距離感で向き合っていくか、ということを考えることが割とある。私にとって「当事者でない問題」の代表格はフェミニズムだ。フェミニズムは色々と誤解を招いている運動で、ともすれば、「女性が中心になって行う運動」と捉えられがちなところがある。しかし、ベル・フックスの定義に従うのなら、フェミニズムは「性差別主義的な抑圧をなくすための闘い」であって、運動の担い手が女性である必要性はどこにもない。別に男性がやったっていいし、性差別主義的な抑圧に抵抗する意志のある人なら誰でも加わることができる。むしろ、フェミニズムをいつまでも女性のものだけにしておく方が問題だ。性差別に対して声を上げるのがいつもいつも女性の方だというのでは、流石に女性サイドも疲弊してしまうだろう(現に疲弊しているように私には思える)。ブルゾンちえみの言うことを信じるのであれば、男性は地球上に35億人いるらしい。もし、フェミニズムに35億の加勢があったなら、大勢は決するだろう。妄言はさておき、シス男性である私もフェミニズムを支持したいと考えている。しかし、私はやはり、どこか、フェミニズムとの距離感を測らなければならない、とも考えている。これは別にフェミニズムが「アブナイ」思想だから距離をとりたい、と思っているわけではない(フェミニズム自体は真っ当である)。そうではなくて、フェミニズムの中に、シス男性である私にとって、理解しにくいあるいは、想像しにくい文脈があるということなのだ。例えば、知人の女性が話していたのだが、その知人は、駅前で酔っぱらった男性にダル絡みをされることがよくあるらしい。知人曰く、ダル絡みをされるときは、「舐められている」と感じるのだそうだ。私は酔っ払いの男性にダル絡みをされたことがないし、「舐められている」という感覚も正直、うまく想像できない。知人の話を聞いたときも、「はあ、そんなことがあるのか、面倒くさそうだな」と思うだけで、自分の身に引き付けて考えることが中々できなかった。女性が日常的に経験する、様々な抑圧を、私はうまく想像できない。自分が経験した感覚に関しては、権威は自分にある。知人の実感の権威は知人にある。女性である知人は、女性が受ける性差別的な抑圧に関して権威である。では、私は? 男性である私は、女性が受ける抑圧に関して、知人程の権威であると言えるだろうか。性差別主義的な抑圧に抵抗する意志があるからといって、女性の抑圧の経験を女性と同じレベルで捉えることはできるだろうか。率直に言って、私にとってそれは難しい。知人と私では、女性が受ける抑圧の経験値に関して、おそらくかなり差がある。もちろん、そこに差があるからフェミニズムを支持できないというわけでは全くない。が、しかし、フェミニズムの名のもとに、そこにある落差のようなものから目を逸らすことは、やはり避けるべきなのだと思う。だから、私は、フェミニズムを支持する上で、フェミニズムとどういう距離感で向き合っていくか、ということを考えざるをえない。自分が支持するものの中にある、非当事者性とどう向き合うのか。そしておそらく、自分がどういう立場にいるのか、ということを考えることが、そのような距離感を測る上で重要になってくるはずである。例えば、自分はシス男性である。男性は、日本においては、雇用・教育などの面である種の「特権」を持っている。また、男性である私は、男性の中にあるホモソーシャルな雰囲気も、ある程度実感してきた(この部分に関しては、私は抑圧の権威かもしれない)。加えて、私は、フェミニズムのことをよく知らない。ちょこっと調べて、ちょこっと本を読んで、ちょこっとそれについて考えたことがあるだけの、ただの素人だ。素人というか、フェミニズムの問題意識が、自分にとって切実な形で立ち現れてくる機会が少ない、と言った方が適切かもしれない。フェミニズムに対する熱意だって、私の周りのフェミニストに比べれば、微々たるものである。行動力も、発信力も、発言力も大してない。こういう立場の男性が、フェミニズムを語るとき、どういう立場の人に向かって、どのようなことを喋ればいいのか。そういうことを気にするときが、割とある。フェミニズムに限らず、非当事者性を感じながら、気になる問題の縁をうろうろすることは、割とよくある。おわり。