性格診断が好きで、「超精密」みたいな謳い文句がついているものを見るとついついやってしまう。そしてやる度に「芸術家」だの「冒険家」だの、社会不適合者の婉曲表現を頂いてしまって、「見透かされている……フフ……」と自虐と満足が入り混じった謎の余韻を感じたりする。後者の満足感は、自分が何かとオリジナリティのあるものが好き、ということに起因していると思う。「芸術家」や「冒険家」は、イメージだけで言えばオリジナリティのかたまりなので、そういうものが好きな身としては、診断結果が「芸術家」になるのは素朴に嬉しい(これまたイメージだけで言えば社会不適合者ではあるけれども)。この「オリジナリティのあるものが好き」という気質は、10歳くらいの頃からあった気がする。小学4年くらいの頃の私はデュエルマスターズカードにドハマリしており、父親の資金力を背景に(父親も私と一緒になってデュエマをやっていた)色々なカードを買いあさっていた。そして、手元にあるカードを組み合わせて、勝つことに比重を置いた「ガチデッキ」ではなく、カード同士の意外なコンボを狙った「ネタデッキ」ばかり組んで遊んでいた。小学3年の頃はガチデッキを中心に組んでいたのだけれど、地方大会で勝ちすぎたせいで、逆にデュエル自体がつまらなくなってしまった。「つまらん、やつを戦場に出したら、一方的に勝つに決まっている」という暗黒騎士サガーン様状態になってしまった。「これではいかん」と思い、ネタデッキを組むようになってからは、デュエルがまた楽しくなったのだった。めでたし、めでたし。ここら辺から、自分の中に「オリジナル好き」気質が芽生えたと思う。主流派の「ガチデッキ」ではなく、注目されていないカードを使って独創的な「ネタデッキ」を作るのが好き、みたいな。ただ、この「オリジナル好き」という性格は、あまり良くない方向に作用するときもあった。「他の人がやっていないこと」に価値を見出す性向は、「デュエルマスターズ」という穏便なトピックに向けられているときは良いのだけれど、「アイデンティティ」とか「規範」のような切実なテーマに向けられたときは、少々危険なものとなる。具体的には、中二病を発症したり、ソクラテスになったりする。「俺はお前たちとは違う」みたいないかにもアレな考えを抱いたり、ことあるごとに「それはなぜ正しいのか」とか言い出したりするようになる。そして友達がいなくなる。そして誰もいなくなった。あらら。気が付けば、大学で哲学を専攻していた。どうしてこうなった……。めでたくない、めでたくない。まあ、なるべくしてなった感はある。哲学やってる人たちは、「哲学したくて来ました!」みたいなポジティブな感じじゃなくて、「畜生、これやるしかねえ……」という感じの人が多い(失礼)。研究室の先生が、「哲学は常にマイノリティ側に立ってきたみたいなところありますから」と言ったとき、妙に腑に落ちた。やっぱり、哲学界隈は厄介な逆張りオタクの巣窟なのだ。超失礼だからこれ以上はやめとこう。さて、「オリジナリティ好き」は自分にとって、功罪両面あるが、最近は「具体性を重視する」という形で現れるようになっている。特に、人づきあいとかの面でそうなってきている気がする。ある人との間で経験した具体的な出来事や関係性を重視するというか、なんというか。言語化できないものを無理に言語化しないでおこう的な感じ。これは、ありとあらゆるものを言語化してラベリングしようとする哲学的な営みに対する自分の反発に由来するところがある。言葉にならない事柄なんて、自分にとって、あるいは人との間で、いくらでもあるんでねーのか、という実感がある。よくオタクがアイドルのライブで言葉を失っているが、あの感じに似ているかもしれない。オタクA「ライブよかったな……」オタクB「ああ、めっちゃよかったな……」みたいな、言葉にならない体験を言葉にならないまま共有しているあの感じ。何を言っているのか自分でもいまいちよく分からないが、とにかく、具体的なものって色々とオリジナルな部分があるよなあ、と言う話。自分が「オリジナリティのあるものが好き」という自覚はあるが、当の「オリジナリティ」の内実は、デュエマ・哲学・具体性と、色々と移り変わってきているし、多分、これからもよく分からん方向に変わっていく気がする。元来、逆張りオタク気質なので、できれば、もう少し「芸術家」っぽくない方向に行ってほしい。これ以上、社会不適合の度合いに拍車がかかったら身が持たない。おわり。
※某性格診断で私と同じタイプにアヴリル・ラヴィーンが挙げられていたときがあった。冗談じゃない。私は、他人の恋人が気に入らないからって自分に乗り換えるようなことを言ったりしない。それはそうとしてアヴリルはいい曲が多い。すこ。