お久しぶりです。
最近なにかと忙しくて、記事を更新できませんでした。忙しいなりに色々と細々としたことを考えていたのですが、自分の中でまとまってきたので書こうと思います。
その前に、こちらを読んでいただければ。
上の記事で述べられていることは、「ある問題について、非当事者はどう語るべきか」という問題ついてである。本文中ではうまい距離感を測ることが大切だ、と締められているが、今回はこの問題をフェミニズムからさらに拡大して人間一般の交流について考えたい。
フェミニズムの問題は、男性属性と女性属性の不理解が原因の抑圧によって提起されてきたものだ。この場合、属性としての性別の観念があまりに巨大すぎて、それが特異的に問題視されているように思えるが、実際のところ、性別は我々を構成する巨大で動的な属性というデータベースの一部に過ぎない。性別や、人種、年齢といったマクロなものから、職業さらには容姿や性格といったよりミクロな属性の重なり合いによって我々は一つの人格を構成する。その表出が例えば職場でのあなたであり、自宅でのあなただ。先ほど、属性が動的だといったのはそのことで、現代の我々は場面場面によって属性を切り替えたり、継ぎ足したり、削除したりして「キャラ」をつくって生きている。
そうやって構成された複雑な人格同士が寄り集まって形成されるのが社会だ。果たして、このように複雑に構成された人格同士がお互いに理解することなどできるのだろうか?俺は、できないと思う。例えば、誰かとの会話の中で、我々は無意識に、話相手の人格を経験則から累計上の人格に想定するだろう。この人は陽キャだ、根暗オタクだ、と。或いは、ツイッターのアカウントからそのアカウント主の人格を想像したりもする。
しかし、我々の人格はそう言った類型的で一面的な属性の性格で判断できるような単純なものではない。我々は、ひとりひとりが内部に固有の物語を秘めている。まさに、十人十色だ。性別という一つの属性の問題すらうまく片付けられない我々に、そんな複雑な属性の複合体を理解できるのか?ボーヴォワールに言わせれば、我々は未来の自分とすら交流することはできない。未来を担保して現在を生きることしか、できないのだ。
しかし我々は日々の生活があまりに慌ただしいせいで、そのことを忘れたまま生き続けてしまう。そして、我々は相互に分かり合えたという誤謬を抱えたまま社会を構成している。 古くは形而上的な理念に、現代は近代西洋哲学や、資本主義、さらに言えば、テレビのコメンテータや、ツイッターの声の大きい人の主張といった一見確からしいものに正しさの根拠を求めるが、そういったものでさえ万人に共通の理念では決してない。だから、人間が憎み合い争うことは必然なことだ。 人間の視野は、我々が思っているよりもずっと、ずっと狭い。
ならば、我々は完全なる相互理解を目指すべきなのか。私は、仮にそれが可能だったとしても、すべきでないと思う。人間同士が完全に理解しあうならばその世界は凄く退屈だろう、それは、あらゆる会話も交流も必要ない、沈黙に支配された世界かもしれない。
弁証法の手法ではないが、我々はあらゆる対立項の中で社会を発展させてきた。だからむしろ、唯一の正解を追求するのではなく、様々な別解を、それこそ十人十色に持ち合わせていることを実感して生活することが大切なのだ。そうすれば、独断同士の衝突という、まったくもって生産性のない争いは可能な限り避けられるだろう。独断は二項対立になりえない。正と正、反と反の交わりなのだから。
だから、我々はお互いが完全には分かり合えないという諦念、のなかで人々と交流しなければならないと思う。それはペシミズムに基づいた思想では決してない、時に怒り、対立し、争うなか(ただ、それは客観的にみて対立せざるをえないシステム同士の争いに限られる。主観によって固定された一方通行の交わりではない)で自らの不理解を自覚することが、社会が進歩する原動力だと考える。
おわり