ウンチな政治

 政治は語りにくい。とかく、何かと、語りにくい。芸能人が政治の話題をツイートすれば、「影響力ある立場の人が軽々に政治的発信をするな」と糾弾され、アーティストが政権批判をすれば、「政治的発言さえなければな」とか揶揄される。政治を真面目に語る人が「ヤバいやつ」と遠巻きにされるような、そういう雰囲気を、日常生活のいたるところで感じる。政治が語りにくい理由は、色々あると思う。私は、政治的なトピックが人々の「怒り」や「狂信」を喚起するから、人は政治を語ることを控えるのかな、と何となく考えている。ツイッターで政治関連のツイートをちょちょいと調べてみると、人の醜い部分が浮き彫りになったようなリプ欄が抵抗性ゴキブリくらい湧いて出てくる。自分と異なる意見を持つ人を、ありとあらゆる語彙で罵倒したり、目をそむけたくなるような差別発言が公然とまかり通っていたり、挙句の果てには、意味不明な宗教的妄言が称賛されていたりと、なかなかに地獄の様相を呈している。私の姉は、「ツイートはう〇こ、TLは下水道」だと豪語していたが、政治関連のツイートを見る限り、「あながち、悪くない比喩表現じゃないか」という気もしてくる。糞尿を好き好んで触りに行く人は、あまりいない。むしろ、「怒り」や「狂信」などの、臭いものには蓋をしておきたい。できることなら毎日、「おもしろ大喜利大会かかわいいイッヌの写真かちょっとえちえちのイラストか四頁漫画」だけを眺めて過ごしたい。いや、全く。

 しかし、じゃあ、政治に全く関わらないでいいかというと、実際のところ、そうもいかない。というのも、政治は、その影響が、私たちの生活に対してダイレクトに作用してくるからだ。昨日まで部活帰りに105円で買っていた菓子パンが次の日には108円になり、あれよあれよという間に110円になってしまった。いきなりビニール袋を貰うのに金がかかるようになった。ここ10年で、LGBYQが取り上げられる機会が増えた。道徳やプログラミングが小学校で必修化された……。例を挙げればキリがないが、日常生活におけるあれやこれやその他諸々が、政治によってもたらされている。あれやこれやの中には、当然、私たちにとって切実な問題も含まれている。私は、できるなら、私にとっての切実な問題が、少しでも、私にとって納得のいくような方向に向かってほしいと、少しだけ思っている。具体的には、仕事が終わった日の夜に、「毎月口座に30万円振り込まれるようにならねーかな」とか考えているし、部活帰りの菓子パンは105円にしてほしいと思っている(もう高校は卒業してしまったけれども)。好むと好まざるとにかかわらず変わっていく情勢を、自分の望む方向に変化させる手段は様々考えられるが、政治はその手段の一つとして、わりかしポピュラーなものではあるだろう。幸か不幸か私には、選挙権やら政治的発言をする自由やらが法的に与えられている。乗るしかないですよね、このビッグウェーブに。いや、別にそんなやる気はない。いっぱしの政治経済の大著を上梓しようとか、SNSでよく見るネット論客になろうとか、政治トピックのブログを定期更新しようとか、そういうことは微塵も考えてはいない。そうではなく、気力があるときには、新聞読んだり、糞尿みたいな話に耳を傾けたりして、選挙とかいうマジョリティの茶番に向けて予習復習をしておこうというだけの話である。

 そうは言っても、やはり政治はクソである(熱い手のひら返し)。政治界隈にはやべー思想を持ったやべー奴らが右翼右翼(ウヨウヨ)している。イギリスの哲学者であるリチャード・ヘアは「人を狂信者にするのは、信念の内容ではなく、信念に対するその人の態度である」という旨のことを言っていたが、政治の世界には、ヘアが言うところの「狂信者」が抵抗性タラカーンくらい湧いている。そして、そういう各種刺激物が入り混じって、「政治」という領域のあちこちに狂気じみた肥溜めが醸成されている。この肥溜めに長い間身を浸していると、知らないうちに自分の頭もおかしくなってしまうので注意が必要だ。気付いたら、自分もウンチまみれになっていたりする。糞害にマジ憤慨。深淵を覗くとき深淵もまた以下略。そんなことを意識しつつ、普段、政治のニュースを見たりしている。自分が「狂信者」になってやしないかとビクビクしながら、「自分の意見」とかいうなんの肥やしにもならない宿便をため込んだりしている。きったね。おわり。

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