みんな大好きツイッタランドでは、毎日のように炎上が起きる。楽しい楽しいツイッタランドは進歩的な思想をお持ちの方がたくさんいらっしゃるので、前時代的な価値観でカチコチになった意見をうっかり表明しようものなら、四方八方からウンチを投げ付けられ、リンチされた後ミンチにされるOh year。進歩的かつ思慮深い人たちは、誹謗中傷にフリーライドするような真似はしないけれど、彼らは、カビの生えた思想の断片を反面教師にしては、口をそろえて、「価値観のアップデートは大事だよね」と言う。
まーね。大事だよね、アップデートって。インターネットや各種SNSがこれだけ普及して、色々な価値観や思想が目まぐるしく交錯する時勢なのだから、価値観を絶えず更新していくことは、誰かと関わり合って生活していく上で、確かに大事なことだし、必要なことなのだろうと思う。……とは言うものの。そうは言ってもやはり、何やらモヤっとしたものが頭の中に残る。「価値観のアップデート」そのものに対するモヤモヤではなく、「価値観のアップデート」というものの「語られ方」にモヤモヤを感じる。そこかしこでアップデートアップデート言うとりますけども、皆々様方、よくそんなハッキリと「価値観をアップデートしよう!」って口に出せますね。私、自信なくてそんなことおいそれと言えませんよ。「価値観のアップデート」って簡単に言ってますけど、めちゃくちゃ難しくないですか?いや、難しい(反語)。前々から、なんとなく「ムズイよなーこれって」と思ってはいたけど、ここ数カ月は特にその困難さを痛感している。
「価値観のアップデート」の難しさを強く感じるようになってきたのは、多分、大学を卒業したことが大きいように思う。というのも、大学は(少なくとも私が通っていた大学は)、知識・思想・価値観の更新が、まさに行われている現場だからだ。大学図書館に行けば、うっすいペーパーバックから分厚い専門書まで、各種書籍が山ほどあるし、各専門分野におけるお歴々が最新の研究成果に基づいた講義を展開してくれる授業が山ほどあるし、学生研究室やサークルに顔を出せば、自分とは異なる考えを持った人たちとおもしろおかしく(?)交流することができる。大学では、校内のあっちゃこっちゃで、価値観どもがびゅんんびゅんとあわただしく行き来している。そういう場所に身を置いていると、大した努力をしなくても、自分の価値観というものが、それはもう頻繁にアップデートされる。アップデートされ過ぎてむしろ不都合が起きるまである。知識という贅肉を付けすぎて、かえって、身体が動きにくくなってしまうこともある。ダイエットしなきゃ。まあ、とにかく、そういう場所にいるということは、それだけでかなりの特典なり恩恵があるっちゅーわけです。
私は今、大学のような場所を持っていない。現在、私は大学を卒業してお仕事をしておりますゆえ。お仕事を始めたことで、私は、数か月前まで大学に費やしていた時間を、ほとんど職場につぎ込むことになった(まあ、永遠にテレワークしてるので、実際に職場に赴いたのは今のところ三日くらいなんですけど)。今の職場は、上司がキツめのパワハラかましてきたり、研修期間中に月45時間以上の残業を強いたりするような酷いところでは(今のところは)ないが、それでもやはり、大学に比べると、組織内の「価値観」というものはある程度固定されているような気がする。ビジネス倫理は、どうあがこうが「儲けること」や「生き残ること」が優越的な地位にあるので、価値観としては割と画一的だ。そういう倫理観の下で交わされるコミュニケーションは、企業活動を円滑に進めるためになされるものが中心になる。自分の興味・関心を大学のサークルや研究室みたく忌憚なく語れるような機会は、まあ、少ない。そもそも、そういうことをするための場所では、ないだろうし。均質的なビジネス倫理に触れながら、会社から支給された貸与PCを一日何時間もカタカタやっていると、「あー、価値観のアップデートする機会少ねーなー」という実感がムクムクと湧いてくる。お仕事が終わったら大概それなりに疲れているので、自分から積極的に世間の情報を集めに行くというようなこともしにくい。ついつい、ゆーちゅーぶとかツイッタランドを見ちゃう。たのしいいい!Vtuberの切り抜き動画ばっか見てるわマジで。かてて加えて、私は(これまでもそうだったが)頓死しない限り、これからどんどん年をとっていく。二十数年生活してきただけでもかなりの実感があることだが、年を重ねれば重ねるほど、自分の価値観というものは凝り固まっていく。こいつをもみほぐすのは、なかなか容易ではない。いや、むしろ凝り固まるくらいだったらまだマシなのかもしれない。何かの拍子にまともな判断能力を失って、価値観がどろどろのぐずぐずになるかもしれないし。認知症になった母方の祖母(故)は、「分裂した氷川き〇しがテレビ画面から出てきて祖母に微笑みかけている」という幻覚をよく視ていたし、私もそんな感じで、推しのVtuberが分裂してスマホ画面から出て来る妄想とかをするようになるのかもしれない。閑話休題。要するに、年を重ねるにつれて頭が固くなっていくであろう私は、大学という環境の特典がなくなった今、「価値観のアップデート」とかいうものを自信満々に言えるだけの自信がないのだ。私はもともと、交友関係が広くないし、おまけに、デジタルデバイドを抱えまくっているので、色々な情報を取得することも不得手だ。もうあとちょっとすれば、すぐに時代遅れの人物になる自信がある。なめんな。先進的な方々から「もうちょっとお勉強しといてよ」と言われる日も遠くない。あー、質のいい病み感情があふれてしまう。
ところで、「価値観のアップデート」は、思慮深い人たちが「価値観のアップデートって大事だよね」と言っているくらいならいいのだが、割とよく、「無知は罪」的な文脈で攻撃的に用いられたりするので、私はちょっと困っている。「価値観のアップデートできていない奴は淘汰されるべき」的なアレ。よく、前時代的な考えを持った年配の人に向けられたりしているアレ。なんか、「新自由主義」お得意の自己責任論の香りがしますね。「自己責任」や「甘え」では済まされない社会構造の歪みに多くの人が気付き始めたので、自己責任論はツイッタランドでは大分ウケが悪くなったけれど、こと「価値観」に関しては、「アップデート自己責任論」がそれなりにまかり通っている印象がある。うーん、なんだかなあ。日本では、働き始めてから大学に行く人が少ないとか、リカレントがあんまりなされていないだとか、情報教育が不十分だとかジェネレーションギャップを埋めるための諸々の条件が整っていない気もするんだけれど、そういう要素も「自己責任」に還元されてしまうのは少々腑に落ちない。「価値観のアップデート」が「できていない」人たちにも、きっと色々な背景があるのだと思うのだけれど、そういう背景をバッサリと捨象してしまうのは、やっぱり、なんだかなあという感じではある。自分自身がアップデートできない人間なので、余計感情移入しちゃう。明日は我が身。実際、世間は旧套墨守のオッサンに容赦ないし。マジくわばら。私は自己責任論があまり好きではない。自己責任論は往々にして、他者の境遇に対する想像力が欠如しているからだ。「価値観のアップデート」は、私たちにとってきっと好ましいものだろうから、できることなら、もう少し、寛容な文脈が出てこないものかな、と「甘えた」考えを頂いたりする今日この頃。おわり。
【ほそく】
「アップデート自己責任論に対する批判」はきっといろいろな保守的主張と結びつきうるので、その射程をよくよく考えないといけない気がする。一応は、「『価値観のアップデート』自体は良いと思うけど、それが自己責任論と結びついたときに他者に対する攻撃性が増すよね」くらいにまとめておこう。マジくわばら。