「自律した個人」は考えない

 マンガ読んだり、音楽聴いたりして、のんべんだらりと生活していただけなのに、そのなんとなくの生活を、自分が自発的かつ積極的に選択したものとして扱わないといけない場面が、まあまあの頻度で登場する。就職活動をしていたときなんかは、そういう扱いを求められることが多かった。履歴書の志望動機の欄に記載するのは、自発的で積極的な自分だし、面接のときに話している自分もそんな感じの自分である。「僕様ちゃんはこれこれこういう目的意識を持って、大学で、サークルで、アルバイトでこういうことに取り組み、その結果、こんなに凄いことを学びました。僕様ちゃんはこんなに有用です。ずっと御社に入りたいと思っていました!v( ̄Д ̄)v イエイ!」ってな具合で。いや、実際は、就活サイトでたまたま見つけただけなんですけど。入社してから、職場の先輩に「何でこの会社に入ったんですか?」と聞いてみたら、「……内定が出たから」と言っていた。親会社の同期にも同じ質問をしたら、「ここしか内定が出んかったから」と言っていた。まあ、そんなもんですよね。はじめっから目的意識を持って、人生の岐路を積極的に、自発的に選択していける人なんて、そんないないんじゃないですかね。自分のこれまでを振り返ってみても、自分の意志で自発的に選択してきたことなんて、パッと思い浮かばない。むしろ、実感としては、いろいろなことに急かされるまま、誰かに言われるがままに「じゃあ、なんとなく、これ」といったように、何も考えずに選んできたことの方が多い。大学なんて就職するために必要だから入ったし、アルバイトやサークルはみんなやってたから自分もやった。トランプマジックで「じゃあ、好きなカードを一枚選んでください」と言われるような感覚だ。自分で選んでいるように見えて、実際は、マジシャンに誘導されて、選ばされていることが多い。それでも、マジック中、私はそのカードを自分で選んだカードとして扱う。現実においては、時代的・地域的な制約が、マジシャンに似たはたらきをしている要素かもしれない、知らんけど。

「自分のことは自分でしっかりと考えて選択していかないといけない」。こういうセリフが一定の説得力を持つくらいには、私たちが想定している「個人」というものは、「自律した存在」としてみなされている。この「自律した個人」というやつは曲者である。というのも、「自律した個人」は、歴史的に見て、男性(しかも経済的に裕福な男性)をその中心に据えて出発しているからである。「自律した個人」においては、様々な主体が想定から除外される。例えば、「理性的ではない存在」とみなされた女性、他者に依存せざるをえない障がい者・障がい者をケアする人たち。数百年前に作り上げられた「自律した個人」という主体の想定は、現代においても、その基本路線を変えずに、公私の領域にまたがってその影響力をいかんなく発揮している。人の他者依存的な部分や、情緒的な側面、誰かとの間で発生する具体的な文脈といった要素をおよそ考慮しない。人の弱さを考慮しない。のんべんだらりと生活している私の惰性を考慮しない。自分の生活が自身の主体的な選択の結果だとして扱われるたびに、「そんな考えて人間やってへんわ!」とわめきたくなる。こちとら24歳児やぞ!ばぶばぶ!!!!でんでん太鼓持って来いよマジで。おぎゃおぎゃ。いや、いかんね、こういうのは。私たちはもっと弱さを前面に押し出していった方がいいと思う。簡単に傷つく存在として、自らを語った方がいい。そして、傷つくことが不可避だからこそ、傷ついてしまったときにどういうリカバリーができるか、ということに関して、他者の言葉に耳を傾ける用意をした方がいい。

 まあ、それはそうとして、私は基本的に人の話は聞かない(手のひらドリル)。だって人の話聞くのめんどくさいし。特に、自分と意見が合わない人と話をしているとめちゃくちゃ消耗する。てか、他者の言葉に耳を傾けるとかそんなめんどくさいことする必要なくね?インターネット及び各種SNSには色んなコミュニティがあるのだから、その中で適当に居心地のいいコミュニティを見つけて、ほのぼのまったり楽しくやった方が精神衛生上よろしいに決まっている。ほらほら、気に食わないやつはミュートしてさ。価値観なんて「人それぞれ」なんだから、ウマが合わないやつは無視無視!…………。ほぼ無意識に、自分と異なる考えを持っている人に対する関心をシャットアウトしようとする自分の心性に気付いてゾっとするときが、ときどきある。「自律した個人」として想定された私は、他者に対する想像を、いとも簡単に遮断する。だって、「価値観なんて『人それぞれ』なんだから、考えてもしかたないのだ。そういう人はそういう人だって話よ」。「自律した私」は考えない。面倒くさいことは考えない。ちなみに、価値観の多様性を強く支持するところのリベラリズムが想定する主体は、「自律した個人」である。おわり。

【ほそく】

※「人それぞれ」というフレーズは、対話のための前提であって、対話を打ち切るための常套句として扱うべきではないと個人的に思っている。

※ただのエッセイなので注はつけていませんが、『フェミニズムの政治学』(岡野八代、2012、みすず書房)を大いに参考にしています。

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