
『仮面ライダーゼロワン』が終わった。
たとえばデザインがスタイリッシュだったとか、たとえばお仕事五番勝負が退屈だったとか、そういった作品全体を通しての総括をする気に今はなれない。たとえばサブキャラクターの扱いが雑だったとか、たとえばポテンシャル自体は高かったとか、つらつらと頑張って並べてみても『ゼロワン』の感想をかけた気がしない。視聴しているその時々で確かに抱いたはずの感想が、今となっては遠いものに感じる。いったい、一年間何を観てきたのだろうか?
『ゼロワン』は割合クールによって内容が決まっていたように思う。滅亡迅雷との闘い、天津との飛電社長の座の奪い合い、アーク・滅亡迅雷の復活、そしてアークの概念に囚われた或人と滅の決着、というのが大筋だろうか。
振り返ってみると、自分が『ゼロワン』に抱く虚無感の正体がわかってきた。迅・イズの破壊、滅との決着といった、最終章で存在感を見せていたショッキングな出来事は1クール目の終盤と酷似している。これは意図的なのかもしれない。変わったのは社会情勢で、出来事をリフレインすることで逃れ得ぬ「運命」を感じさせる。『鎧武』の終盤もそんな印象を受けた。
しかし、『ゼロワン』は変化する社会情勢を描けていなかった。逐一書いていっても枚挙にいとまがないが、天津が飛電の社長に就任したとき大量のヒューマギアが機能停止され、廃棄された。1~2クール目で医療や教育を含んだ、ヒューマギアと人のお仕事の関係性を描いたにもかかわらずだ。これは作品内で描かれていないので野暮だが、人手不足はZAIAスペックでは代替できないだろう。ヒューマギアを新たな家電として位置づけてまとめる人も多かったが、それにしても、暴走する危険性があり権利者の一存で機能停止する家電と共存している社会とは一体何なのだろうか?そうして考えると、最初のころにやったことを終盤で繰り返すしかなかったこと、そこに収斂してしまったことへ虚無を感じてしまうのだ。
もちろん、社会情勢が描けているかの出来栄えは、特撮作品どころかたいていのエンタメ作品の評価に直結しないだろう。別に平成ライダーをそんな観点で評価したことは無い。『カブト』や『ビルド』の民衆も相当無理があったように思う。しかし、『ゼロワン』のその類の描写の分量は多かったように感じる。4クール目終盤で挿入されたヒューマギアのデモ描写もなかなかだが、その感覚の源泉はお仕事五番勝負だ。
社会派・お仕事五番勝負
あの頃リアルタイムで感じていた徒労感は、戦闘の勝敗がお仕事勝負の勝敗に直結しなかったことに起因する。ゼロワンとサウザーの戦闘がお仕事五番勝負の勝敗に連動してさえいれば、少なくとも視聴感は違ったはずだ。ゼロワンがシャイニングアサルトホッパーでマギアやレイダーを撃破しても、それとは関係のない投票、「社会的評価」で勝負の勝敗が決まる。(ここで暴走の危険性が考慮されないのも違和感)
製作陣のインタビューを読む限り、そこの難しさはかなり意識されたようである。
大森:でも、みなさんもうそろそろ気づいているかもしれませんが、「お仕事」と「仮面ライダー(の戦闘)」って、食い合わせがよくない(笑)。
高橋:ヒューマギアのお仕事紹介と、或人が仮面ライダーに変身して戦うシチュエーションをつなぎにくいんですよね。打ち合わせのときもたびたび「この話、仮面ライダーが出なければうまくハマるのに」なんてことをよく言い合います。
大森:あるんですよね。「戦わないといけない?」って(笑)。
高橋:いけないのはわかっているんですが(笑)。
https://news.mynavi.jp/article/20191225-946049/4
細部の瑕疵についてはここでは触れない。大変だった理由も上記の通り。お仕事五番勝負の「社会」の描写が奇跡的に上手くいっていれば、あるいはそれを諦めていれば。だが、TTFCのインタビューを読むと少し考えが変わった。
大森 たぶん当時も言っていたと思うんですけど、元号が変わったといっても前の番組と直結してのスタートですから、そんな根本的なところは、いきなり変わらないですよね(笑)。ただ、とはいえ観る側の気持ちは変わっていたりするだろうし、僕自身もチーフになって4作目でしたから、もう少し”仮面ライダー”というドラマの枠を拡げたい、ということは考えていました。”仮面ライダー”なんだけど、”仮面ライダー”っぽくない作品、みたいな感じですかね。
仮面ライダーゼロワン テレビシリーズ完結記念 東映プロデューサーチーム スペシャル座談会
これはあくまで推察だが、『ゼロワン』が目指した令和ライダーらしさ、そして仮面ライダーっぽくなさとは、社会派ドラマのそれだったのではないだろうか。全文を読むと、募集したアシスタントプロデューサーを仕事について取材させ、それをドラマに盛り込むという試みだったとのこと。平成ライダーらしさを扱った『ジオウ』と、らしくなさの『ゼロワン』。尺や技量の都合でやれなかったかもしれないが、やる気がなかったというのは違うようだ。
1未満の
社会のアレソレは上手くいっていなかった。こういう場合、サブエピソードの出来具合だったり、人物やライダーの描写が成長や活躍が印象に残り、その集積が評価となっていく。これも逐一は挙げない。時間が経てばともかく、今の自分にはやはり惜しかったところや好きなところを挙げていくことが徒労に感じてしまうからだ。
『ゼロワン』の初期で印象的なのは、ヒューマギアへの向き合い方を三人のライダーに分けていたことだ。ヒューマギアの可能性を信じる或人、ヒューマギアの暴走を危険視する不破、ヒューマギアをあくまで道具として考える唯阿。しかし物語が終わってみると、「ヒューマギア」というものに対して驚くほどふわふわしていたため、この対比は意味を成さなくなってしまった。
手っ取り早く考えると、或人には「シンギュラリティを達成したヒューマギアが人類に敵意を抱く」、不破には「人間に寄り添うヒューマギアの姿」、唯阿には「仕事では役に立たないヒューマギアの可能性」あたりを経て変化していくことで、月並みだが成長や変化が起きていくのだろう。
このうち、不破に関しては簡潔ながら変化したといっていい。なんとなくだが、「不破さんが好き」という意見を見かけるのもそこに由来するのではないかと思う。しかし、残り二人に関してはその契機が消滅したと思う。成長や変化が必要なんだ!と叫ぶつもりもないが、しかし『ゼロワン』は歪だとも思う。
なぜ歪なのかというと、ヒューマギアがAIを搭載したロボットであると同時に、与えられた役割をこなすお仕事人間でもあったからだ。
『ゼロワン』に登場する単語は、我々が使うそれではなく、括弧つきの意味であることが稀にある。或人の滅の向き合い方を考えると、ヒューマギアの「夢」とは、自分に定められた役割の中でやりがいを見つけることだといえる。最終話で滅は迅にパパと呼ばれ笑みを浮かべているのがその端的な証だ。だが、『ゼロワン』は理解が難しいと総括するのにも違和感がある。そもそもそんな「夢」のない話があるだろうか?
ヒューマギアは悪意に晒され暴走することもある。しかし、みんながヒューマギアを信じれば、ヒューマギアから善意は返ってくる。人間は他者へ悪意を向けることもあるが、アークの概念や悪意と繋がらないヒューマギアはそうではない。むしろヒューマギアは人間へ無償に善意を向けることができる。さらに、ヒューマギアは壊れても復元し、元の状態へラーニングすることができる。こうして夢のマシン・ヒューマギアと人間は共存し未来への一歩を踏み出した。
確かに文字で見ると、ヒューマギアも夢のマシンとして未来への新しい可能性を感じるかもしれない。ヒューマギアは人と違うからこそ夢のマシンだ、と。ヒューマギアに感じる人間味は、演技や演出の食い違いでしかない、と。
しかし、本編はそんな代物ではなかった。滅や或人の復讐は、イズや迅が同じものとして復活できるのならば何だというのか。人に散々悪意を向けてきて、悪意をヒューマギアにラーニングさせた天津がaiboやアイちゃんから善意を受け取って改心するのなら、もはや人間など要らないのではないか?それが『令和・ザ・ファーストジェネレーション』の世界なのだろうか?
本編の序盤では、腹筋崩壊太郎やマモルのように、与えられた役割をこなす中でシンギュラリティに到達し、相手を笑顔にしたい、というようなやりがいを見つけたヒューマギアがいた。その事実は作中の「夢」ともバッティングしないが、しかし復活した彼らは同じ仕事をしても「夢」を見つけてはいない。それを「新しい彼らもまた同じ「夢」を見つけられる」と切り捨ててしまうこと。消えてしまった彼らに思いを馳せないこと。そのまま受け取れば、ヒューマギアとは、心と身体が傷ついても復元することができる優れた存在になってしまう。こんな存在をキャラクターとして見ることはできない。或人や唯阿と関わり合い、考え方を変える存在としては捉えられない。せめてもっと人間っぽくない形なら……それが「アイちゃん」であり、この作品における正解なのかもしれない。
ここからは完全に私見で、しょうもない妄想である。
『ゼロワン』にはそんな小さな話で終わって欲しくなかった。これではディストピアだ。「ゼロツー」という名前を聞いたとき、かなりテンションが上がった。今まで「個」の存在しなかったヒューマギアがシンギュラリティを迎え、悩み揺れ動く個人と対等になること、それが0→1、ゼロワン。しかし個を獲得するということは完全ではなくなることで、そのために人とヒューマギアが醜く争うこともある。それでも、人とヒューマギアが互いに異なる存在でありながらも個を尊重し並び立つことができれば、1+1=2、ゼロからツーになれる。個がなくアークの概念の言うがままのアークゼロにも対抗できる力だ。アークワンが生まれても、悪意のまま相手を尊重しない「1」は「2」には勝てない。そんな妄想が常に頭にこびりついていた。
令和らしさ、それはこっちが勝手に抱くものであるのは間違いない。ただ妄信するのも洒落臭いが、並び立つ個を認める――いわゆる「多様性」のスタンスについて、人とヒューマギアを分けつつ「俺たち(心が強いから痛みを越えて許し合える)仮面ライダーだろ?」と用意された共通性で終わってしまうのは、やはり肩を落とさざるを得なかった。
願わくば、ゼロワンに残った欠片を無かったことにしないで欲しい。たしかに、玩具が売れる限り基本的には仮面ライダーは続くものだろうが、「仮面ライダー」に込められた意味を、できる限り増やし挑戦していって欲しい。0から1へ、挑戦の欠片を否定することだけはしたくない、『ゼロワン』に抱くのはそんな気持ちだ。