内省とフェミニズム

【内省とフェミニズム】

 私たちは内省する。何らかの物事が上手くいかなかったとき(あるいは上手くいったとき)、私たちはそれまで自分が行っていた行為・思考の過程を振り返り、これからの行為・思考をより良いものにするべく、自覚できている何らかの要素に修正を加えていく。人づきあい・勉強・仕事・趣味・その他諸々の日常生活における事柄などについて、私たちは内省するのである。

 内省には、二種類ある。①「手に負える内省」と、②「手に負えない内省」だ。手に負える内省は、一般的な「反省」のイメージに近い。「ああ、これは良かったけど、これは良くなかったな。うん、次からこうしよう」的なやつである。よかったこととよくなかったことに対するイメージが比較的はっきりしていて、なにがしかを意識的に修正することにさほどの困難を感じないような場合、私たちの内省は、自分の「手に負える」ものとなっている。しかし、「手に負えない内省」の場合は、スムーズにことは運ばない。「手に負えない内省」はとてつもなく、しんどい。なぜなら、それは文字通り、今の自分にとっては「手に負えない」ようなものであるからだ。「手に負えない内省」は、内省するべきことが、小手先で変えられるものではないことが多い。「手に負えない内省」は、それまでの自分の生き方や、信条、依拠してきた根本的な価値観そのものが修正を余儀なくされる。何がいけなかったのか。内省するべきことが圧倒的な広範囲にわたるため、私たちはしばしば呆然として立ち尽くしてしまう。そんな「手に負えない内省」は、とてもしんどい。「手に負えない内省」をボディーに一発食らうと、今までの自分が恥ずかしくなり、「私はなんと愚かなことをしていたのだ」という気分になる。「手に負える内省」のように、修正すべき点すら明瞭にならないことも多い。何が悪かったのか分からないにもかかわらず、もはやこれまでのような現状を続けることはできないという確信がある。不可逆的で、強い風が吹きすさぶ中で身を縮こませるしかないような、そんな内省だ。痛くて痛い内省を経ると、私たちはほんの少しだけ物事に慎重になっていることもあるようだ。

 「手に負えない内省」を経験すると、面白いことが起きる。「あの経験をできれば繰り返したくない」という気持ちが芽生えるのだ。これもまさしく内省の一環と言っていいかもしれない。「ひどいことをしてしまった。できるならもうあんな経験はしたくない」。自分自身が酷く揺さぶられるような体験自体をしないようにするためにはどうすればいいのか。一度手痛い内省に見舞われたとき、私たちは、真剣にそれを回避するための方策を練り始めるのだ。それはそれで、内省の一つの重要な契機であるだろう。しかし、その真剣な内省によって、私たちはかえって、切実な内省を迫られたときにそれを無視するような性向を身につけてしまう場合もある。「もうあんな思いはしたくないから、内省は自分一人の中で完結させてしまおう」と言った具合に。要するに、内省をした結果として、「手に負える内省」のみを求めようとするよう性向が生まれるのである。ある意味、それは、自然な反応であると言えるかもしれない。私たちは、自分が大きく揺さぶられるような経験を、安全に乗り切ることができるとは限らないからである。私たちは不可逆的な変化を恐れる。傷つきやすい私たちには、だからこそ、できる限り穏便な修正で済むような「手に負える内省」を求めるのかもしれない。

 しかし、「内省」というものは、やはり、一人で完結させることを許さない類のものがある。私たちが「内省」を迫られる原因の一つに「他者の存在」がある。自分一人では到底完結しないような、他者がいて初めて、私たちは「内省」に駆り立てられる、ということがある。小西真理子(2021)はそのような経験を次のように表現している。

 定着しつつあった思考が根本からバラバラに分解されるような経験をするのは、その前提とは異なる「特定の他者」を目の前にしたときや、「特定の他者」が必死に何かを伝えようとしているとき、そして、「特定の他者」が何か悲鳴をあげたときだけである。

「他者の存在」がある以上、私たちの内省というものは、「手に負える内省」だけでは済まされない。内省というものは、本来的に「手に負えない内省」を内包しているのである。

 ところで、フェミニズムというものは、そのような「手に負えない内省」が常に要求されるような運動であると思う。性差別的な抑圧に抵抗する運動であるところのフェミニズムは、その主体が生半可な内省に留まることをよしとしない。シス男性である私にとって、フェミニズムはいつだって自分の価値観やもの見方を根本から更新していくことを要請する。絶えず発せられるマイノリティ側の声に「冷や水を浴びせられる」経験から目を背けないこと。そのような姿勢、傷つきやすい存在であるところの私たちにとってはいつだって荷が重い姿勢、それこそ自分一人では「手に負えない」ような姿勢をフェミニズムは根本的に要求している。だから、フェミニズムは内側から絶えずフェミニズムに対する批判が沸き起こる。「定着しつつあった思考が根本からバラバラに分解されるような経験」をする可能性がある点は、フェミニズムの特性の一つであるように思う。菊池夏野(2019)は次のように言う。

 フェミニズムはやはり、近代社会に生まれるべくして生まれた思想であり、学問であり運動である。それは非常に大きな広がりと深さ、そして異種混淆性をもっている。であるからこそ、内的な論争や対立が起きうるし、起きるべきなのである。つながりよりも、対話と論争、対立をおそれないどころか、あえて求めるフェミニズムにこそ、私は意義があると信じている。

私は菊地のこの言に全面的に同意している。

 とか言ってたら、「フェミニズムがまた象牙の塔になってしまうゾイ」と私は超速で内省した。「近代」とか、「リベラルと」か、「パフォーマティヴィティ」とかいう学術用語ばかり使っていたら、またもやフェミニズムは、大学出身の中産階級による一部の人たちだけのものとして語られてしまう。そうじゃない。フェミニズムは、学術的なものであり、絶えず私たちの更新を迫るものであると同時に、私たちの日常と私たち自身に根差すべきものなのだ。とりあえず、自分の身の回りに差別的抑圧があったときは、口うるさくぐちぐち言っていこうと思う。おわり。

【参考】

・小西真理子、「はじまりの場所—臨床哲学との出会いをつうじて」、臨床哲学ニューズレター第三号(2021)、http://clphhandai.blogspot.com/2021/03/1997-1998-2021.html

・菊地夏野、『日本のポストフェミニズム—女子力とネオリベラリズム』、大月書店、2019

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