夢の再現『シン・仮面ライダー』感想

感想

『シン・仮面ライダー』を最速で観た。以下は全てネタバレです。

https://www.shin-kamen-rider.jp

……なかなか言葉にするのが難しい。何だこれは、と帰り道に考えて、「夢を見た直後のようだ」と思った。


冒頭。いきなりバイクによる逃亡シーンから始まり、「本郷猛が捕まって改造人間にされる」といった前段をすっ飛ばす。

誰もが知ってるからか、潔い判断だと思ったが、映画全編においてそれが続く。いわゆるエンタメの基礎というか、登場人物のドラマが殆ど描かれない。極限まで切り詰められていて、こちらが想像力を働かせなければ何が何やら分からない。

SHOCKERの過去は前日譚の漫画を読んでいれば、現状でもある程度補完できる。しかし、「エゴによって人々の平和を脅かす秘密組織」という描写は全くと言っていいほどない。

守るべきものだとか、戦う理由だとか、そういうヒーローの「共感しやすい」ドラマが描かれない。

(だからエンタメ性に欠けるし、お仕事ものとして痛快に見れたシンゴジラのようには受け取られないと思う)

まずそれが「夢」である理由の一つである。


一方、映像面では目が醒めるようなカットが多かった……と素人なりに感じさせられた。

時には雄大な自然を背景にしてまるで一枚絵のようなレイアウトを見せ、

別の時には死を悼むライダーと「渚」を映す意図的なカット、

かと思えばどこまでも続くトンネルでの戦闘のわうな「嘘」を魅せる。

エヴァンゲリオンに代表されるような、細かく、タイミングに優れた庵野監督の雰囲気が取り分け濃かったように感じた。

それこそ本元?のシン・エヴァンゲリオンは長編なりに全体的に緩急が付けられていたのに対して、シン・仮面ライダーは生身アクションとCGを怒涛の勢いで流し込み、飲み込ませるような勢いを感じた。

観終わってから5時間が経つが、正直まだ頭がクラクラしているくらいである。このバキバキとした感覚は、クールな全体のデザインと相まって、妙に頭に映像を残してくる。


しかし、そのクールさが「リアリティ」になっているか?というとこれも違っていて、

「レッツゴー仮面ライダー」を何度も使用したり、初代どころか石ノ森作品へのオマージュを随所に仕込む童心がアンバランスな様を見せる。

前置きが長くなったが、言いたいことは、

子どもの頃に観た仮面ライダーへの感動を何とかして再現できないか……ともがく姿を自分は幻視している、ということである。

何だかよくわからない。冷静になると面白くない箇所は山ほどある。

ただ、SHOCKER戦闘員を叩き潰し、その恐怖を仮面で隠しながらまた暗闇で戦い、一文字へ仮面を引き継ぐ本郷猛。そのヒーロー性だけが伝わってくる。

本編中で本郷猛は「体が勝手に動く」「暴力に歯止めが効かない」と恐れる。「レッツゴー仮面ライダー」を流しながら痛快にSHOCKER戦闘員をぶちのめす姿に子どもは熱中するが、その時本郷は「動かされている」状態である。実際に本郷が感じているのは、50年前には描かれなかった戦闘員の血飛沫だ。

あの時テレビで見た感動をオマージュしながら、そこにやり過ぎなくらいの血飛沫を解釈として足すことで、今現代に「あの時テレビで見た感動」を蘇らせる。表面をなぞるだけでは再現できないので、その奥に合ったものを探りながら組み立てているわけだ。

もちろんそれが無茶なことは承知の上だろう。パンフレットでは、しきりにスタッフから調整に調整を重ねる監督の話が挙げられる。上映前の舞台挨拶でメインキャストが口を揃えて「少し前に完成したばかりなので……」と困惑していたのは少し可笑しかった。

「自分が作りたいもの」と「観客が見たいもの」のバランスを取ろうとする姿は「シン・シリーズ」のドキュメンタリーやインタビューで見せてきた。

ただ、それは決してエンタメ性に優れた作品を作ろうとしているのではないだろう。

その観点で見ると、「そこはそのままやるんだ?」「そのキャラクターの感じは古くないか?」と感じるところが多い。

良くも悪くも、この映画は、子どもの頃に感じる、記憶も朧げだが感動した記憶を必死に再現し、残そうとしているのだ。

この映画を観た何割かの人が、「仮面ライダー」が仮面ライダーたる由縁を受け取るために。


先述した通り、日常や市井の人々の描写は無く、暴力と束の間の休息だけがこの映画では描かれる。

初めて変身した後の本郷は、自らの身体の変容に慄き、仮面を被ったり脱いだり……という混乱が見られる。

率直に、仮面を被ると安心するだろうな、と思った。

暴力を振るう恐怖から逃れるために仮面を被っていた彼が、仮面を被ることを通して様々な思いを受け取り(ルリ子)、自らの仮面を通して他者に思いを伝えていく(イチロー、一文字)。

ラストは本郷の魂が宿った一文字が「仮面ライダー」として新たに走り出す場面である。萬画版を頭によぎらせつつ、そこからの仮面ライダーは本郷という暗さを仮面の下に抱えた快男児としてヒーローをやっていくのであろう。

そこは痛いほど伝わる。

なんか実写ヒロインのスタンスが皆同じ感じでキツいとか、(というかシンシリーズを通して、女性観がやっぱり実写の成人女性だとキツいとか)ドラマが削られすぎていて共感出来ない人々のウェットな話が全く頭に入ってこないとか。

肉付けはあまり上手くいっていないように思う。「物語」みたいな切り口だと殆ど皆無だとさえ思っている。

白昼夢のような、悪夢のような感覚がまだ残っている。よく分からなかったが、クールな映像の裏で精一杯に傷付いていた仮面ライダーのことを考えてしまう。そんな体験だった。


余談だが、シンシリーズ全体を通して、エヴァが腑に落ちるという感覚がある。

暴力に怯え、機械の身体に閉じこもる感覚。決して自分の意思が途絶えているわけではないが歯止めが効かなくなる「暴走」への恐れ。赤い液体が飛び散ることで強調される暴力性。

シンジとエヴァを「怪獣と戦うウルトラマン」だと思っていたら、実は「怪人を潰す仮面ライダー」だった。というか、エヴァはウルトラマンでシンジは本郷猛と言った方が近い気がする。周りからはウルトラマン扱いされる分、より救いが無い。

シンシリーズ全体のプロモーションからも、「ヒーローそのものをキャラクターとして定着させる」という意気込みを感じる。節操のないコラボも、とにかく「日本のヒーロー」としてライダーたちを定着させたいと言うことだろう。

ついでに、本作では「SHOCKER」を純粋悪として定着させたいという意気込みも伝わってきた。公式アプリなど、「ファンの皆様のために」という姿勢をSHOCKERにしてしまう洒落である。

内容は二の次でとにかくアイコンとしてヒーローと悪の組織を定着させ、映画では(監督の考える)「本質」を原液そのままにぶつける。それは「特撮」「ヒーロー」が続くことへの純粋な祈りだ。

その純粋な願いのために、かつてのヒーローへの感動と畏怖を再現しようともがき続けたシンシリーズ。

ゴジラとはこれ、ウルトラマンとはこれ、仮面ライダーとはこれ。特撮とはこれ。かつてエヴァで表現しようとして多様に受け取られ、今度はそのままの形で映画シリーズにまとめ上げた。

果たしてこの祈りは届くのか……既に種蒔きの姿勢に入っている気もする。

何だかんだ特撮を見て楽しんでいる人間なので、これからも夢の欠片を見せて欲しい。それが一消費者としてのしょうもないエゴである。

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